小学校での不登校は低学年と高学年で様相が大きく変わります。低学年になればなるほど、学校に馴染めない、学校や教室が怖いといった強迫観念が強く、高学年になればなるほど人間関係の微妙な問題、あるいは周囲と自分との考えの違いなどに悩みやすくなります。
いずれにしても、不登校は解決できるに越したことはありません。登校できるのであれば、それがいいでしょう。しかし、それがダメだからと言って絶望する必要も全くありません。
物事の考え方が価値観が多様化したこの21世紀で、この広い地球と世界と日本の中で、自宅近くにあるたった一つの学校に登校できないだけで絶望する必要はないということ。よくよく考えると狭い範囲で物事を考えているだけで、本来の目的はもっと別の所にあるのですから。
小学校での不登校対応は長期化させないことだが…
もちろん、小学生という年齢と年代を考えると、学校に行かない(行けない)期間が長引くのはやはり避けたいところです。本当であれば学校に毎日行くのが理想的なので、それは否定しません。行けるのであれば行けばいいです。
しかし、学校の役割とは何か?なぜ学校に行かなければいけないのか?という「そもそもの目的」と考えた場合、あなたはどんな風に考えますか?
私が思う学校という存在意義の一番重要なポイントは「社会性を身につけて、将来自立するように成長すること」です。
そして、そのための時間を提供してくれるのが学校。それが最も効率的に学べるのが学校、という訳です。
じゃあその目的を叶えられるのであれば学校でなくともいいのでは?
学校はどんな理由があれ行くべき場所という凝り固まった考えの人には受け付けられないでしょうが、私はそもそもの目的が叶えられるのであれば、別に学校でなくともいいと考えています。
つまり、ゴールが同じであるならば、どのルートを辿っても同じ。最終的な形が同じになるのであれば、別に学校でなくてもいいという考えです。
適応指導教室やフリースクールなど、今の時代不登校支援は充実しています。小学生であれ中学生であれ、普通の学校でなくとも自分の居場所を見つけて社会へ羽ばたいている人は想像以上に多いということをまずは自覚しましょう。
私が不登校の小学生に対して行うべき親の対応は、「その子供の将来にとって最も適切な教育支援=自宅近くの学校とは限らない」という視点を持つことではないかと思います。
その子供の将来を真剣に考えた時に、目指すべきゴールは社会性を身につけた自立であることです。ではそれを身につけるために学校が無理だった、どうにもこうにもならない。
じゃあ他の場所を選択すればOKではないか?その場所が見つかり、そこで子供が成長できるのであれば、一体何が問題なのか?不登校なんて、ちっちゃい問題でしょ?と。
正直この考えは批判は多いでしょうけれど、これぐらい柔軟に考えるのも大切ではないかと思います。私は中学校で不登校から学校復帰、高校で再び不登校→大検予備校(高認)→大学→就職という流れで生きてきましたが、この考えをもっと早く身に着けていれば苦労せずにすんだかな、と大人になった今になって心の底から思います。
小学校の対応と親の対応では利害が食い違うこともある
こういう視点を取り入れると、学校側の対応と親の対応とではとるべき内容が大きく違ってきます。学校側は何が何んでも学校に登校させるのが正義であり、それが本当の不登校対応だと信じて疑いません。
それに対して、親は子供と学校の相性が最悪なのであれば他の場所で成長して欲しいと願うでしょう。そうなると、利害が噛み合わず、目的も目指すべき方向性も違ってきます。
その時に、きちんと双方が話し合いをして、互いを理解し合うことが重要になります。「親にとってどうか、学校にとって正解は何か」ではなく、「その子供にとって本当に適切なのはどこか」の視点でないと、話し合いは平行線です。
学校側は「親の対応や教育が悪い」となり、親は親で「学校側は子供のことを真剣に考えていない」となり、対立を深めるだけになってしまいます。