不登校は甘え、親や環境に依存しているだけという厳しい意見と、いや不登校は甘えではないという穏健派の意見はよく取り上げられます。
不登校経験がある人、その親兄弟、支援側にいる人、つまり不登校本人ないしその近くにいる人ほど穏健派の考え方です。
逆に、不登校は甘えだと断罪する人は厳しいことや理不尽なことを乗り越え、苦しいことがあっても上手く社会に適応しようとする努力家に多いというのが、個人的な印象です。
不登校は甘え VS 不登校は甘えじゃない
不登校は甘えなのか、甘えじゃないのか、結論は人によって違うと思います。どちらが正解で、どちらが不正解で、その意見に優劣はありません。
私は不登校経験がありますが、甘えだと認めざるを得ない部分もあると思っています。甘えだと言われれば、確かにそうかもしれない。
でも、長い人生、時には甘えてもいいんじゃない?という考えの持ち主です。甘えだろうが甘えじゃなかろうが、どうでもいいことです。
それよりも、いかに子供の心身の健康をいち早く取り戻すか、そっちの方が大切なので。
人それぞれ意見を持つ権利はあるが、それを強要する権利はない
それと、自分の意見が絶対に正しいと思い込むことも危険ですし、私も自分の意見は強要しません。ここで書いている自分の意見も、数ある考え方の一つにすぎないと思っています。
お互いの意見を受け入れたうえで、じゃあ今の自分の境遇から抜け出すにはどんな方法があって、どんな選択肢があって、自分にとって何がベストなのかを考え、実行することの方が大切です。
どの選択肢が正解で、どれが間違っているなんてものはそもそも存在しないし、いろんな考えがこの世の中には存在しているんだということを知るのも大切だと思っています。
不登校は甘え派の本音は「自分や周りの人は頑張っているのに!」
結局、「不登校は甘えだ」と考える人の本心は「自分はこんなに頑張っているのに、許せない」という所なんじゃないかなぁと。
どんなに辛いことがあっても、どんなに苦しいことがあっても皆頑張っているし、自分も頑張っている。今現在学校に通っている学生も、社会人も、辛いことがあっても面倒なことがあっても我慢している。
それなのに、学校に来ない、その苦労から逃げようとしている人を認めてしまったら、自分の頑張りは何なの?と。
つまり、「不登校の人を甘えじゃない」認めてしまったら、苦労や辛いことを乗り越えようと我慢してきた自分の過去の経験を否定してしまう。
それが怖いんだろう、嫌なんだろうと思います。
不登校を認める=自分が辛いことを乗り越えた経験が無意味に…
不登校は甘えじゃない、そういう方法もあると認めてしまったら、あのとき辛くても我慢して乗り越えてきた自分はいったい何だったのか?
今苦労して、我慢して乗り越えようとしている自分は何?その目的も意味すらも見失ってしまう。
不登校は甘えじゃないんだったら、皆学校に来なくて良いのか?じゃあ、真面目に学校に行って、会社に行って、辛いことも理不尽なことも乗り越えてきた真面目な人が損をするのか?
それこそ平等な世の中じゃない。
苦労を避けることを認めてしまったら、自分の苦労は何の意味があったのか?皆同じ境遇でも我慢して乗り越えようとしている。だから、不登校を認めるわけに行かない。不登校は結局甘えだ!
これが、「不登校を甘え」と考える人の、究極の本音ではないかと思います。
自分の経験から乗り越えることの大切さを知った
たまに、学校に行くのが嫌だという感情を認めつつも、不登校は認めるべきではないという意見の人もいます。
自分は学生時代いじめられていて、学校に行くのがすごく嫌だった。学校に行きたくないと親に訴えても、親は厳しく自分に接して、どんなことがあっても負けないように諭してくれた。
そのときは確かに辛かったけど、あの時負けなかった経験があるからこそ辛抱強くなり、大抵のことは乗り越えられるようになった。
だから、あの時自分に厳しく接してくれた親には感謝している、と。
不登校は甘えとしか見られない父親
父親の立場からはどうでしょうか。
不登校の子を持つ父親だって、かつて運動部に所属していたり、決して居心地がいいとは言えない会社で、先輩や上司からの理不尽な対応にも真摯に耐えて苦難を乗り越え、逃げ出したい気持ちを抑えて頑張ってきた。
忍耐力こそが人生を生き抜く上で最も重要なものだと学んでいます。
学校に行かずにサボる子供を見ていると、甘えているだけに見えて許せない。そんなことでは厳しい社会は生き抜いていけない。
しかも、不登校は甘えじゃない、子供を見守れってことは単に甘やかせということじゃないか?
そういう方法で社会を生き抜く方法があるなんてこと認めてしまったら、今までの自分の苦労は一体なんだったのか?と。
不登校は甘えじゃない派の意見は「それでは子供を救えなかったから」
一方、不登校は甘えじゃないという意見を持っている人は、何も最初からそういう意見を持っていたわけではありません。
むしろ、「不登校に対して厳しい対応を取るべき」という考え方から変化した人も多いです。
なぜ自分の考えが変わったかと言うと、不登校を甘えだと決めつけて厳しい対応をとっても解決しないことを実体験から悟り、それを「甘えではない」と受け入れて別の対応を取ることの方が解決が早いことを多数の事例から実感しているからです。
不登校を甘えだと叱責していても、状況は一向に変化せず状況は悪化するばかり。そこで対応を変えてみたら、時間はかかっても少しずつ子供は前向きになり社会復帰していく子供が多かった。
こういう事例をたくさん目の当たりにしたからこそ、意見を変えたのです。
不登校本人との距離で意見が変わる
不登校支援の立場にある人ほど「不登校の子供をまずは受け入れるべき」と主張していることが多いのは、そういう理由からです。
不登校を甘えだと思っている人は、不登校の生徒や子供とは距離が離れた立場の人に多く、甘えじゃないという意見の人ほど当事者、もしくは当事者に近い立場の人です。
不登校の生徒や子供に近い立場にある人は、「不登校なんて甘えだ!」と決めつけてなじるよりも、その状態にある子供をいかに救い出すかに重点を置いているので、認識にずれが出ているんですね。
時に兄弟間で意識のずれがあり、甘え続ける不登校の兄妹に怒りが収まらないという方もいるようですが、それはまだ当人同士が理解しきれていないからでしょう。
物事の解決方法は一つではない!他の解決方法も認める勇気を持とう
自分自身が辛い経験を乗り越えてきて、強い心を持つことが出来たのなら、それは素晴らしいことです。しかし、その経験は誰でも出来るものではありません。
あなたにとっては乗り越えることが出来ても、別の人には乗り越えられない壁の可能性だってあるからです。乗り越えるか、回避するか、別にどっちでもいいんです。
あなたが乗り越えようと思うのならそれでいいし、回避したいと思う人がいるのなら、それを尊重すればいいじゃないですか。
「不登校は甘えだ」という意見は間違いではないです。あなたがそう思うのなら、それが正解なです。
ただし、「あなたにとっての正解」であって、世の中の万人にとって正解とは限りませんし、それを押し付けてもいい権利なんてありません。
あなたの性格、環境、経験、人生、立場からは正解だったのなら、自信を持てばいい。誇らしく思えばいい。
しかし、その自分にとっての正解を無闇に他人に押し付けなくていいじゃないかというのが私の考えです。
全員が全員同じ苦労を分かち合うことが平等ではない
そもそも、苦難を乗り越えることの意義や重要性をいくら説いたとしても、乗り越える方法はたった一つではありません。子供は子供なりに考えて、別の乗り越える方法を考えるかもしれません。
そもそも、目指しているゴールが全く違うところにあるかもしれませんし、重視しているものも違うかもしれません。皆が皆、一緒である必要はありません。
人は人、自分は自分です。
自分にとって乗り越えることがベストならそれでいいですが、回避する人がいたからといってそれを批判するのは少し違うように思います。回避した末に素晴らしい未来を手に入れられるのなら、それも素晴らしい解決方法の一つです。
ある人にとっては乗り越えることが正解でも、ある人はその壁を避けて遠回りすることが正解かもしれません。物事の解決方法は、たった一つではありませんよね。
平等とは皆が同じ権利を有することであって、全員に同じ経験させることではありません。
世の中にはいろいろな価値観、考え、解決方法があることを知り、認める
自分の中にない考えや価値観を受け入れることは大変です。
自分は過去の経験から正しいと信じて疑わないし、確かに自分とは真逆の意見(しかも自分のつらい経験を否定するような考え)を受け入れるのは容易な事ではありません。
でも、そういう時に受け入れる広い心のことを、度量が大きく、器が大きいと言えるのだと思います。
自分の経験から得た価値観はかけがえのない大切なものですが、それが世の中の全てではありません。自分とは真逆の価値観を持った人を受け入れる勇気を持つことも、時には必要です。
まぁ、結局この意見も他人に押し付ける権利はありません。不登校に対して最後にどう判断するかは、読み手であるあなたの自由に委ねられるんですけどね!